醍醐寺金堂

湧き出る水を飲み「醍醐味」を味わう醍醐寺

貞観16年(874年)、理源大師の聖宝(しょうほう)が現在の醍醐山(標高450m)と呼ばれる山に登ったところ、山の神の化身である老人が現れ山中に湧き出す水を飲んで「醍醐味なるかな」と言ったそうです。そして同じ水を飲んだ聖宝は、山頂に観音を安置する草庵を建てました。これが醍醐寺(だいごじ)の始まりとされています。

醍醐山は山全体で80余棟の堂塔が立つ真言宗の山岳道場です。醍醐寺は醍醐山全山を寺域としており、山下の伽藍を下醍醐(しもだいご)、山上を上醍醐(かみだいご)と呼んでいます。総門を入ってすぐにあるのが三宝院(さんぼういん)です。

秀吉の援助で再興された三宝院

この寺院は一山の中心子院で門跡寺院です。現在の建物は、豊臣秀吉の援助で再興されました。秀吉が諸大名を引き連れて歴史上有名な醍醐の花見を行ったのは、慶長3年(1598年)3月です。秀吉は花見の後の4月に三宝院の殿舎庭園の整備を計画し、工事に着手しました。秀吉はさらに大規模な花見を次の年に行う計画があり、その準備でもあったのです。

秀吉はこの作庭に3人の奉行を任命し、その下に仙という庭師が人夫300人を指揮して工事を進めました。秀吉は普請中、三宝院を何度も訪れ築庭の指揮をするほど熱心だったといいます。慶長3年8月秀吉が死去した後、当時の醍醐寺座主義演准后(ぎえんじゅんごう)は、秀吉の意思を継ぎ工事を続行しました。この時の築庭には、庭師の賢庭(けんてい)が従事しています。彼は後陽成帝から「賢庭ト云天下一ノ上手也」という勅を賜ったほどの作庭の名手でした。つまり、現在の三宝院の庭園は義演と賢庭によって作られた庭園なのです。

この庭は典型的な神仙島を形どった庭園で、また平安時代中ごろに流行した貴族の住宅様式である宸殿(しきでん)式庭園の様式を残す唯一の庭でもあります。中央に亀石、右に鶴島があり、池畔一帯に石が多数使われ、そのなかに「藤戸石(ふじといし)」という名石があります。玄関を入ると、江戸中期の画家石田幽汀作の葵祭図のある葵の間、狩野山楽の作とされる秋草図のある秋草の間、花鳥図のある勅使の間と続いています。

国宝の表書院から7段の階段を昇ると、茅葺きの純浄観(じゅんじょうかん)があります。この建物は秀吉の花見御殿として山上の槍山に建てられたものを移したものです。

京都で最古の木造建築である金堂

三宝院を出て下醍醐に向かうと仁王門があり、仁王門をくぐってさらに進むと金堂があります。この金堂は醍醐の花見の際に間に合わず、紀州湯浅の満願寺本堂を移したものであるそうです。金堂の南に建つ五重塔は醍醐天皇の冥福を祈り、天暦5年(951年)に落成した建築物で、京都府最古の木造建築物でもあります。

上醍醐は下醍醐からさらに東へ約3.5km登った山上です。上醍醐の入り口にあるのは清滝宮(せいりゅうぐう)拝殿です。寺名の起こりである霊泉の醍醐水はこの拝殿の傍らにあります。ここから石段を登ると准胝堂(じゅんていどう)があります。聖宝が醍醐山頂に建てた准胝・如意輪の2つの観音を安置する草庵は、貞観18年(876年)に准胝堂、如意輪堂として完成しました。

准胝堂は醍醐寺最古の建物ですが、昭和14年の山火事で焼失し、現在のものは昭和43年に再建されました。本尊の准胝観音像は秘仏で、毎年5月18日の開扉法要にだけ開帳されます。

東に下ると薬師寺があります。醍醐寺が延喜7年(907年)に醍醐天皇の勅願寺となった際に、聖宝によって建立されました。内陣の蟇股(かえるまた)は、くり抜き式で、宇治上神社(京都府宇治市)、中尊寺金色堂(岩手県平泉町)と並んで「三蟇股」と呼ばれています。

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