大徳寺三門

洛北髄一の大伽藍を連ねる古刹・大徳寺

京都市北区にある丘陵が船岡山です。その東北にある北大路の北方一帯の紫野は、古くから歌にも詠まれましたが現在は住宅地になっています。この紫野の一角を占めるのが、洛北髄一の大伽藍を擁する竜宝山大徳寺です。

非公開の大徳寺本坊

大徳寺の総門は大通りの北大路には面しておらず東側にあり、これをくぐると三門、仏殿、法堂が一直線に並んでいます。三門は、千利休がそこに自らのわらじ履きの木造を安置して、豊臣秀吉の逆鱗にふれ、自決を命じられたことで知られています。

大徳寺本坊は非公開となっていますが、築地塀で囲まれた中には21の塔頭があり、龍源院、瑞峯院、大仙院、高桐院の4つが公開されています。大徳寺は、元応元(1319)年、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が紫野の地に小院を創建したことから始まりました。

妙超は、花園上皇と後醍醐天皇の庇護を受け、花園上皇から「大燈国師」の称号を、後醍醐天皇からは「本朝無双の禅苑」の勅旨を賜り、南禅寺と並ぶ五山第1位に列せられました。

一休さんによって再建・復興

しかし、足利時代になると、3代将軍足利義満により、五山から排除されるに至りました。応仁の乱後、一休宗純(一休禅師)らが再建・復興し、堺の商人の援助で方丈、法堂を建立しました。

天正10(1582)年、豊臣秀吉が織田信長の葬儀を行ったことから、武将とのつながりが深まり、相次いで塔頭が建立され、現在に至っています。

大徳寺の境内には塔頭が多数あり、その中には優れた庭、茶室、襖絵があります。以前は、かなりの塔頭が一般公開されていましたが、残念なことに現在は先に述べた4つのみが常時公開されているだけです。

このうちの一つ、大仙院は永正6(1509)年の創建で、古嶽宗亘(こがくそうこう/大聖国士)が開祖です。7代目の住職があの沢庵宗彭(たくあんそうほう/沢庵和尚)です。

方丈は龍源院と同様に最も古い禅宗方丈建築の一つとして、国宝になっています。また、枯山水の庭は、国の特別名勝となっています。この庭は枯山水の初期の形態を示す最も典型的な庭であるといわれ、書院に面した約20坪足らずの面積の中に、大自然の深山幽谷の景色と広がる大河の景色を、書院と庫裡を結ぶ細い渡り廊下を境に表現しているといわれています。

唯心論的な禅宗の思想の影響が大きい作庭

作庭は、大聖国師が書院の建築と共に自ら石を集めて造ったと伝えられています。このことは、大仙院に伝わる古文書の中の、南禅寺の駐雪(ちゅうせつ)撰による「大聖国師行状記」に、そのことが記載されています。江戸時代、松平定信が集めた数奇屋絵図(東京国立博物館所蔵)、ならびに旧三井家所蔵の数奇屋絵図集の中に大仙院書院と庭園が起こし絵図として集録されているのは有名です。

現在の同庭園の白砂と庭園中央の古渡り廊下は、この古絵図と寺院の記録をもとに復元修理されました。方丈内の襖絵は狩野元信筆とされる「花鳥図」、「四季耕作図」が描かれています。方丈北の隅の土塀際に不動石や観音石があり、美しい砂の流れが滝を表しています。

方丈の南への滝の流れが、透渡殿と呼ばれる仕切りでいったん堰き止められ、そこから大河となって悠然と流れています。堰の近くには叡山をかたどった石があり、その脇に宝船を浮かべ、霊亀石が泳いでいます。

こうした水墨画のような意匠の流れが、数十個の大小の庭石をわずかな破綻もなく巧みに、しかも雄渾に石組みして優れた芸境が示されているのは、まさしく作者大聖国師の禅僧としての教養と深みが基礎になっているからなのでしょう。

枯山水と称される小庭・石庭が、庭の形態的表現として生まれてきたのは室町時代中期頃からであるとされていて、禅宗の唯心論的な思想の影響が大きいとみられます。

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