常寂光寺本堂

嵯峨野の紅葉巡りにかかせない場所

嵯峨野の地は、世を厭う文人たちが都を逃れ、侘び住まいしたところであり、王朝文学はもとより近世の俳諧にいたるまで文学や歴史にしばしば登場します。

嵯峨日記には芭蕉が落柿舎に立ち寄ったと記している

竹林の葉がすれる音色に、そこはかとない味わいや無常が感じられるからでしょうか。あの芭蕉も滞在したとされるひなびた草庵があります。門口には、かつての主の在宅を知らせた蓑と笠がかけてあり、庭の隅には、主の句碑「柿ぬしや木ずえは近き嵐山」と書かれています。主は向井去来といい、芭蕉の門下で、蕉門十哲のひとりです。

去来が住んだ当時は、庭に40本の柿の木がありました。ある時、商人が立ち木のまま柿を買い求める約束をしたのですが、大嵐が吹いて一夜で柿がすべて落ちてしまいました。そこから、この草庵は落柿舎(らくししゃ)と呼ばれるようになり、自身も「落柿舎の去来」と名乗るようになったといいます。

師の芭蕉は元禄4(1691)年、落柿舎に立ち寄り、17日間の滞在を「嵯峨日記」に記しています。庵は茅葺で、いかにも俳人の住まいらしい侘びた風情があります。

天台四土にいう常寂光土のような風情からつけられた寺号

落柿舎から程近い所に位置し、小倉山の中腹に立つ京都屈指の紅葉の名所が常寂光寺(じょうじゃっこうじ)です。寺名は小倉山の閑寂なこの地が、仏教の理想郷の常寂光土の趣を持つことからこの名がついたとされます。

茅葺きの仁王門は、元和2(1616)年、本山の本圀寺(ほんこくじ)から移築されたもので、運慶の作とされる仁王像が出迎えてくれます。楓の木々に囲まれた石段を登っていくと、本堂・妙見堂・多宝塔が見えてきます。

茅葺の多宝塔は和洋と禅宗様の両方の様式を取り入れた秀作で、重要文化財にも指定されています。この寺は別名、軒端寺(のきばてら)とも呼ばれ、藤原定家の和歌「忍ばれんものともなしに小倉山野端の松ぞ馴れて久しき」にちなんでいます。

北嵯峨のなだらかな山々を背景に満々と水を湛える大沢池は、周囲が800mほどの人造湖です。池中には、北が天神島、その東が菊ヶ島と呼ばれます。華道の嵯峨御流は、嵯峨天皇がこの菊ヶ島の菊を折り、瓶にさしたという故事に由来しています。

写経の道場として親しまれる大覚寺

大沢池周辺は、映画やテレビ(主に時代劇)のロケ地になることが多く、この大沢池に面する御所風の典雅な寺が大覚寺(だいかくじ)です。もとは嵯峨天皇の離宮でしたが、その内親王が寺院に改めました。文永5(1268)年には後嵯峨天皇が出家して入御し、次の亀山天皇、続く御宇多天皇もここに入って院政を行ったため、嵯峨御所の名でもよばれるようになりました。

それ以後、亀山・御宇多帝の皇統に属する法親王が住持し、御深草天皇の皇統である持明院統に対し、大覚寺統と呼ばれました。足利尊氏が持明院統の光明天皇を擁立して、南北朝の争いに発展しましたが、明徳3(1392)年、この寺で講和が成立。北朝の後小松天皇が神器を継承しました。

この後も、明治初年にいたるまで、後続の法親王が住持し、格式を保ってきました。門をはいると、菊花の幟幕が目を引きます。建物は回廊によって結ばれ、御所の雰囲気を漂わせています。後水尾天皇から下賜された宸殿は、牡丹・紅梅・柳松・鶴の4間から成り、特に牡丹と紅梅の図は狩野山楽の作とされます。

南北朝の講和会議が開かれた正寝殿は書院造りの建築物で、11室の小室を飾る襖絵や杉戸絵は、狩野元信、狩野山楽、狩野探幽、渡辺始興らによるものです。このうち御冠の間は、御宇多法王が執政にあたった部屋とされ、桐・竹・鳳凰の蒔絵で飾られ、嵯峨蒔絵として知られています。

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