京都の桜

京都は大本山・本山と称するお寺が多い

京都は八百八寺と称されていますが、実際にはそれ以上あるでしょう。実際のところ、京都はお寺さんの町です。京都にはあらゆる種類の宗旨の寺がそろっていて、大本山・本山と称するものが非常に多いのです。

幾多ある神社・仏閣巡りをする人が多い

京都を旅する人の目的はさまざまでしょうが、やはり幾多ある神社・仏閣巡りをする人が多いでしょう。中でも京都駅からすぐ近くにある東・西本願寺を訪れ、あるいは東山方面にある三十三間堂・清水寺に向かう人が多いようです。

しかし、今回の旅は、古都に吹く風に誘われるままの気まま旅です。というわけで、洛西にある「西芳寺(さいほうじ)」に向かいます。この寺は、通称「苔寺」の名で知られており、一面が美しい苔で覆われています。寺は奈良時代の8世紀に行基が聖武天皇の勅願により創立し、暦応2年(1339年)夢(む)窓(そう)国師が中興しました。その際、浄土宗から臨済宗に、また寺号を西方寺から西芳寺に改められました。ちなみに、夢窓国師とは、夢窓疎石のことで、のちに朝廷から夢窓正覚国師の国師称号を賜ったことから夢窓国師として社会に知られるようなり、日本庭園史上で最も優れた作庭家・石(いし)立(たて)僧(そう)です。石立僧とは、当時の造園の専門家のことです。

でも、単なる石立僧として片付けられるような人物ではなく、当時広範な社会層から非常に尊敬され、禅林五山の上に君臨した高僧でした。疎石は美濃の豪族の出身で、幼くして僧籍に入りました。彼について書かれた伝記によると、僧侶として優れた人物であったばかりでなく、学問・教養にも秀で、特に芸術の感覚に恵まれており、永石の技(作庭技術)に優れていたようです。

金閣寺や銀閣寺の作庭にも影響を与えた

彼が実際に自ら作庭を行ったか否かについては、考証家の間では議論が交わされていますが、実際に作庭の指示を行ったことには間違いなく、それを実証する資料も残っています。その資料とは、東寺の杲(ごう)宝(ほう)という密教の学僧の書き残した書に、「天下の大導師たる疎石が修禅宗と号してしきりに前栽を構えるのは宗教家としての堕落である」と記されています。

戒律を重んじた密教の僧侶からしてみれば、疎石のように宗教界の指導者たる立場にいる者が、芸人の技を真似るがごとくに見えたのでしょう。また、疎石が書いた「臨川(りんせん)家訓」の中には、「予は三会院の東において枯山水を構える」と述べて、疎石自身が三会院において作庭を行ったことを明らかにしています。実際のところ、疎石は作庭を行っていて、暦応2(1339)年、彼が中興した西芳寺庭園は、彼の作庭した代表的な庭園として著名です。

そのほかに天竜寺の庭園曹源池、南禅院庭園、鎌倉の瑞泉寺庭園などが知られています。話を戻すと西芳寺庭園は上・下二段に分かれていて、下段は黄金池を中心とした池泉回遊式庭園です。上段は、対照的に枯山水石組の庭です。苔の種類は、オオスギゴケ、シラガゴケなど120種余といわれ、苔と木立によって幽玄の世界が作り出されています。当時の西芳寺には、方丈、仏殿、舎利殿、潭(たん)北(ほく)亭などがあり、後背の山腹から山頂にかけて指東庵、縮遠亭などの建造物が庭園の池を囲んで配置されていたといいます。

向上関から山腹に登って指東庵に至り、指東庵の東面に建つ小門を潜って、石組の間を縫いつつ縮遠亭に至り、周囲の眺望を楽しんだと記録されています。当初の黄金池に舎利殿の建つ浄土庭園の形式は、金閣寺や銀閣寺の作庭にも影響を与えたといわれています。

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