金閣寺

鏡湖池に映える美しい金閣寺

室町幕府第3代将軍の足利義満は、応永4(1397)年正月に別荘として、当時は北山第(ほくざんてい)と呼ばれた「北山殿」を衣笠山の東に造営しました。

武家文化と公家文化の融合に加え禅の影響も

通称「金閣寺」、この北山殿に代表される武家文化と公家文化が融合し、さらに禅宗の影響を加えた文化が北山文化と呼ばれます。金閣寺(鹿苑寺)は、その北山文化の象徴になります。

金閣寺を最初に見たときは、その美しさに感動しましたが、再訪したときは部分的に金箔が剥げ落ちたその姿に、一抹の寂しさを感じたものです。その後、金箔の張り替え(昭和63年)を行っていて、今は金閣寺の名のとおり華麗な外観を保っています。

正式には鹿苑寺で、寺名は義満の法名が由来です。境内にある舎利殿を金閣というところから金閣寺と呼ばれていますが、資料がほとんど残っていないので、設計者も明らかでなく、造営当時の庭園の地割りや建物の配置もほとんど不明なのです。

わかっているのは、主要建物として舎利殿、懺法堂、護摩堂などのいくつかの棟が応永4年4月16日に、立柱上棟式が行われたことと、庭園が作られたことわかっています。これらの中で最も重要な建物である舎利殿(金閣)は、三層楼閣の建築物です。

庭園と建物で極楽浄土を表現する作庭

仏舎利を舎利殿に祀り、僧形となって仏に帰依した義満は、前面の池に蓮の花を植え、今も存在する九山八海石をすえました。そうして金閣を中心にした広い庭の展開を、七宝池(しっぽうち)に見立て、曼荼羅に描かれている極楽浄土の様子を金閣と池庭とで実体化したのです。

仏教の世界観で、須弥山(しゅみせん)意味する九山八海石を庭の中に据えることが室町時代には好んで行われていたようです。

義満も、西芳寺(洛西:京都市西京区)に、さかんに詣でていて、西芳寺の瑠璃閣(舎利殿)に参禅し、その舎利殿の配置や庭園をこの北山殿においても真似たのだとされています。ただ、庭園と建物で極楽浄土を表現する作庭の考え方は、平安時代以降に行われてきた日本の作庭思想の根本をなすものでもあります。

義満の死後は、義持により舎利殿を残して解体され禅院とされた北山殿は、鹿苑寺(金閣寺)となりました。その後、応仁の乱のときに西軍の陣所となり焼失しましたが、金閣だけが焼失を免れました。その金閣も昭和25(1950)年に、学僧・林承賢(当時21歳)の放火により建物は全焼し、昭和30(1955)年に旧建物の資料をもとに復元されました。

三島由紀夫の「金閣寺」、水上勉の「五番町夕霧楼」など、この事件を題材として書かれた小説で有名な放火事件です。

ちなみに、初層・二層・三層それぞれに異なる様式をもつ三層宝形造の金閣は、初層を法水院といい寝殿造りの阿弥陀仏堂として作られています。二層は潮音堂で、書院造の観音堂です。三層は究竟頂(くつきょうちょう)といい禅宗用仏殿となっています。二層と三層の間には屋根がなく、広縁になっています。

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