清水の舞台

坂上田村麻呂が飲んだ清水にちなんだ名がついた清水寺

京都を訪れたことのない人にも、「清水の舞台」で知られているのが清水寺です。清水寺は奈良時代末の宝亀9(778)年に、延鎮上人が音羽の滝近くに草庵を造り、千手観音を奉ったのが始まりだといわれています。その後、奥州征伐に向かう坂上田村麻呂が水を求めて立ち寄って帰依し、討伐から帰った延暦17(798)年に、長岡京の宸殿を移築して建てたのが現在の堂宇の前身だとされています。

清水寺の名は、坂上田村麻呂が飲んだ清水にちなんだものです。このときの堂宇は、平安末期に起こった奈良の興福寺と比叡山延暦寺の争いに巻き込まれ、残念ながら焼失してしまいました。現在ある本堂や経堂は、寛永10(1633)年に徳川家光によって再建されました。

縁結び・はらい戸・芸時上達など様々な神様

清水坂を上っていくと、檜皮葺(ひわだぶ)き入母屋造りの仁王門が現れます。両脇の高さ4メートルの仁王像は、京都では最大のものです。大日如来が祭られている三重塔から経堂、田村堂(開山堂)、朝倉堂を抜けると本堂に出ます。経堂は本堂と同じ寛永10(1633)年に建立され、釈迦三尊像を奉っています。開山堂も寛永10年に再建され、唐様の厨子の中に坂上田村麻呂夫妻と延鎮上人を奉ってあります。

本堂の北側には地主(じしゅ)神社という鎮守社があります。ここは縁結びの神様として知られ、片方の石からもう片方の石へ目をつぶってたどり着けば恋がかなうと言われる恋占いの石があります。他にも取り除いてほしいことを人形(ひとがた)に書いてお祈りする、はらい戸大神、撫でると芸が上達するという芸時上達の撫で大国など、さまざまな神様が奉ってあります。

木組みだけで支えられた舞台造りの構造

拝殿の中、天井に描かれた龍の絵は狩野元信筆と伝えられています。また、謡曲「田村」に歌われた桜の名所としても知られていて、境内奥には、八重と一重が同時に咲く地主桜があります。

本堂の前が有名な清水の舞台で、眼下には音羽(おとわ)の滝が見え、京都市街が一望できます。清水の舞台は断崖の上にあるため、舞台造りという139本の柱に貫を組んだ構造で建物を支えています。また、1本の釘も用いられてなく、木組みだけで支えられています。

「古都」に描かれた清水の舞台

川端康成の小説「古都」には清水の舞台のことが流麗に描かれています。本堂は、内々陣、内陣、外陣の三重構造で、一般参拝者は外陣まで入れます。本尊の十一面観音像は内々陣の厨子の中にあり残念ながら見ることができません。本堂を出て、急な石段を下ると音羽の滝があります。3条の筋となった清水が流れ落ちていて、無病息災・不老長寿のご利益があるといわれています。

江戸時代に再建された安産祈願の名所

奥の院の先を音羽(おとわ)の滝に下りずに真っ直ぐ行くと子安塔(こやすのとう)があります。清水寺の塔頭の泰産寺の境内にあり、江戸時代に再建されたものです。もともと、坂上田村麻呂の娘が皇子の誕生を祝って建てたもので、安産祈願の名所となっています。清水寺の本坊は成就(じょうじゅ)院と呼ばれ、勤王僧月照(げつしょう)と門弟の信海が出たところです。

烏帽子岩と自然石で創る陰陽和合の図

庭園は、書院が建築された寛永年間に作庭されたとされていて、作者は相阿弥であるとか、小堀遠州であるとかいわれていますが不明です。清水山の山裾を利用して築山として、その下に地山の岩盤を穿って池を作ってあります。築山には滝口を落とし、池中には二島を配置して、神仙島を形づくっています。

池中の中島の大きい島には、滝口横から反りの美しい木橋をかけ、島中に奇形の立石の烏帽子岩を据え、その横に蜻蛉灯籠と名づけられた石灯籠を建てています。そして別の島には穴を穿たれた大きな自然石を据えています。烏帽子岩を陽、自然石を陰に表徴して、陰陽和合の図としているのです。

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