京都の紅葉

心に染み入る風情を醸し出す塔頭

渡月橋は、嵐山のシンボルの中でも代表と称されるものです。嵐のように桜や楓が舞うところから嵐山と名づけられた背景に、月が渡るという風雅な名前をつけられた渡月橋を見渡す紅葉の季節は、日本の秋を代表するといっても過言ではないでしょう。

亀山天皇の「くまなき月の渡るに似る」の言葉

大堰川(おおいがわ)に架かる全長250メートルの渡月橋は、現在は鉄筋で作られていますが、木製のままの欄干が往時の姿を偲ばせます。橋の南に法輪寺があった平安時代には、「法輪寺橋」、「法輪橋」と呼ばれていました。亀山天皇の言葉「くまなき月の渡るに似る」から、現在の渡月橋と名付けられたそうです。

架橋当時は、今より上流に位置していた(100メートルほど)とされていて、何度も洪水によって破損し、慶長11(1606)年、角倉了以が保津川開削工事を行った際に、現在の場所に架け直されました。この大堰川を渡って真っ直ぐ北へ向かうと、左手に見えてくるのが天龍寺山門です。この山門をくぐり、長い参道を歩いていくと、両脇に並んだ塔頭が心に染み入る風情を醸し出しています。

さらに進むと、世界文化遺産に登録されている天龍寺の法堂・方丈などが、正面に見えてきます。現在、法堂には雲龍図(加山又造)が描かれていますが、残念ながら非公開となっています。以前は、鈴木松年の描いた龍の絵が掲げられていましたが、法堂の改修に伴い、平成10年から現在の絵となりました。

この寺社は、北畠親房筆消息、夢窓国師像などの重要文化財指定の書画彫刻が多数あり、京都五山第1位の栄華がしのばれます。京都五山は、中国風の寺格制度のことで、何度かの変更がなされていますが、至徳3(1386)年に幕府が定めた五山は、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺の順位です。

日本庭園で初の「水墨画的表現」とされる

天龍寺は、臨済宗天龍寺派の総本山で、南北朝時代の禅院を代表する名刹ですが、8回にも及ぶ兵火で焼亡し、現在の諸堂のほとんどは明治期に再建されたものです。暦応2(1339)年、後醍醐天皇が吉野に崩ぜられ、夢窓国師が足利尊氏に勧めて天皇の冥福を祈るべく、一寺創建を図り、亀山殿跡に天龍寺が造営されました。

天龍寺造営のため莫大な費用を捻出するために、元寇以来途絶えていた元との貿易が再開され、この貿易船は天龍寺船と呼ばれました。康永2(1343)年、殿宇が完備し、国師は天龍寺十境を定め曹源池を作りました。そのとき足利尊氏は、弟の直義とともに自ら木石を運んだと伝えられています。

今、残っている方丈庭園がそれで、築山の中央の滝口は、築山の背後にある亀山の山裾から噴出する泉水を樋で引き、滝口の右側には境内の北西、小倉山下の沼地より延々と水を引き、池の中に注いでいたと言われています。現在は水源は枯れてしまいましたが、今も湧出する清水が池を満たしています。

保津峡の石を用いた石組みは、池中の鋭く立った組石と一文字に架けて、石橋の橋の横の線が交差するところを始点とした構成の庭は、天地無限の力の広がりを暗示しているといいます。この天龍寺の石組みの様式は、日本庭園における「水墨画的表現」の起源とされていて、枯淡を用いた水墨画の美がうかがえます。

近くには、源氏物語の舞台にもなった野宮神社(ののみやじんじゃ)があります。源氏物語の賢木の巻で、光源氏と六条御息所の離別の舞台となったことで有名です。伊勢神宮で祭祀に奉仕する未婚の皇女を斎宮といい、この神社は、伊勢下向前に3年間籠もって、心身を清める野宮があったと伝えられています。

当ホームページに記載されている文章・画像などの無断複製、転載を禁止します。
Copyright (C) 京都を流れる古都の風 All Rights Reserved.