神護寺(金堂への石段)

高山寺と神護寺を有し清滝川沿いの渓谷も美しい三尾地区

国道162号線、通称は周山街道の御経坂峠を越えたあたりは三尾(さんび)と呼ばれます。三尾とは高雄(たかお)・槇尾(まきのお)・栂尾(とがのお)の三地区の総称ですが、神護寺・高山寺などの古刹を有し、清滝川沿いの渓谷美で有名です。さらに北へ向かうと、北山杉の林が続く素朴な山里の風景が見られます。

絵画や文書などの多くの文化財を伝える高山寺

三尾の入り口にあたる栂尾の山腹に建ち、世界遺産にも登録されている古刹が高山寺(こうざんじ)です。この寺は国宝の「鳥獣人物戯画」と日本茶のルーツで知られています。創建は奈良時代で、天台宗の度賀尾寺に始まったとされています。その後、建永元(1206)年、後鳥羽上皇の院宣で明恵(みょうえ)上人が華厳宗の道場として再興し、高山寺と号しました。

有名な「鳥獣人物戯画」は実は複製

当時の遺構をそのまま残す石水院は、後鳥羽上皇の賀茂別院にあったのが移された明恵上人の住居ででした。入母屋造の鎌倉時代初期の様式を残す建築物で、優雅な趣が感じられます。寺宝には紙本墨画鳥獣人物戯画四巻をはじめ多数あります。ただし、本物の鳥獣人物戯画は東京国立博物館に寄託されているので、ここに置かれているのは複製です。

鳥獣人物戯画とともに有名なのがお茶です。栄西が宋から帰国した時に送られた茶の種を、明恵上人が栂尾に植えたのが、わが国における最初のお茶の栽培であると言われています。境内にある茶園はそれを記念したもので、表参道には水原秋桜子の「ひぐらしやここにいませし茶の聖」の句碑が見られます。

空海が一時住持し最澄も法華経の講義をした仏教史上重要な神護寺

高山寺から少し下ったところに、神護寺(じんごじ)の別院として創建された西明寺があります。天長年間(824〜833)に空海の弟子智泉が創建したとされますが、兵火にかかって焼失し、現在の建物は後水尾天皇の中宮、東福門院の寄進とも、徳川5大将軍綱吉の生母桂昌院の寄進とも言われています。神護寺は弘法大師が入寺した名刹で、紅葉の名所としても知られています。

神護寺は、平安京造営に功績のあった和気清麻呂が建立した神願寺と、この地にあった高雄山寺を合わせ、「神護国祗真言寺」が創建されたことに由来している。大同4(809)年には、唐から帰国した空海(弘法大師)が住持し、14年間活躍しました。

しかし、久安5(1149)年に天災で根本真言堂が焼失し、以後衰微していきました。当時の様子が平家物語巻5に「春は霞に立ち込められ、秋は霧にまじわり、扇は風に倒れて落葉の下に朽ち、甍は雨露に侵されて仏壇さらにあらはなり。往時の僧もなければ、稀に差しいる物とては、月日の光ばかりなり」と記されています。

雪舟寺の別名がある芬陀院

芬陀院(ふんだいん)は元享年間(1321〜24)に、関白一条経通が父の内経の菩提を弔うために創建しました。室町時代後期の画家雪舟(せっしゅう)の作とされる鶴亀の庭があるところから、雪舟寺の別名があります。

寺伝によると、雪舟が所望されたのは「亀の画」でしたが、造ったのは石組みの亀だったということです。作庭の夜には亀石が動いたという伝説が残っています。書院南の庭園には、中央に亀島、左に鶴島を配し、ツツジや山茶花の刈り込みを取り入れた枯山水庭です。

また、茶関白と呼ばれた一条恵観が東福寺参詣の際に茶を楽しんだ図南亭(となんてい)を復元した恵観堂があります。

一木造の薬師如来立像が安置されている金堂

このような神護寺を再興したのが文覚(もんがく)上人で、その際、寺の興隆を願って理想の寺のあり方を記したのが、「文覚四十五ヶ条起請文」です。長く険しい石段を登ると仁王門があります。そこをくぐり、先に進むと書院・庫裏・宝蔵などがあります。

中心をなす金堂には薬師如来立像が安置されています。全身に力強さをみなぎらせた薬師如来像は、両腕以外を1本の檜で刻まれた一木造です。金堂の東には鐘楼があり、掛けられている梵鐘は銘が著名で、「形の平等院、音の三井寺、銘の神護寺」と言われています。鐘の4面に書かれた銘文は、詞は橘広相(ひろみ)、銘は菅原是義、書は藤原敏行という当代一流の人物によっています。

楓の林を抜けて地蔵院にでると、その前庭に断崖上の錦雲渓(きんうんけい)の景観が開かれます。ここから眼下の錦雲渓に向かって「かわらけ投げ」が行われています。小さな薄い素焼きの円盤を投げ、美しい弧を描いて落ちれば願い事が叶うとされています。

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