二条城二の丸御殿

徳川家康が宿泊所として建築した二条城

二条城は、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が上洛の際の宿泊所として建築したもので、当初は現在の二の丸御殿に相当する規模しかありませんでした。家康が征夷大将軍に任じられ、拝賀の礼は二条城で行われました。慶長19年の大坂冬の陣、翌20年の夏の陣では徳川方の本営となりました。元和6(1621)年、東福門院徳川和子(徳川秀忠の娘)の入内も二条城で行われました。

明治時代に一般公開されるようになった

3代将軍家光が、寛永元(1624)年、後水尾天皇の行幸を仰いで、幕府の威厳を誇ろうと大修繕をおこないました。この時に、現在の規模になったとされています。天明8(1788)年の大火で本丸のすべてを焼失し、当時の面影を現在にとどめているのは二の丸御殿、東と北の大手門、隅櫓のほか土蔵のみです。

そして、慶応2(1866)年に徳川慶喜は二条城で将軍職を拝命しますが、翌慶応3(1867)年には、慶喜自身が二条城で大政奉還しました。この間約300年間、徳川将軍家の京都屋敷でした。明治時代に入ると離宮となりましたが、のちに京都市に下付され、二条城として一般に公開されるようになりました。

常に正面を向いている八方にらみの獅子図

二の丸御殿の築地塀は、堀川通に面する東大手門から入るとすぐに見えます。華麗な彫刻が施された唐門が殿舎への入口となっています。二の丸御殿は国宝で、6棟の大書院建築からなる壮大なものです。車寄せから遠侍(とおざむらい)・式台・大広間・蘇鉄の間、黒書院・白書院と続き、部屋も老中・諸大名控えの間、対面所、将軍の居間、勅使の間などがあります。

狩野一門によって描かれた二の丸御殿の障壁画は、式台に描かれた老松図・雁図・鷲図や東入口杉戸の八方にらみの獅子図は必見です。特に八方にらみの獅子図は、どの方向から見ても、獅子が正面を向いているように見えるのでこのように呼ばれています。

また、大広間は将軍と諸大名が対面した場所で、御殿のうちで最も豪華を極めています。将軍が出座した上段の間の天井は二重折上格天井(にじゅうおりあげごうてんじょう)です。二重折上格天井とは、天井の形式のひとつで、天井の平面を2段階に高くしてあるものです。諸大名が座る二の間・三の間・四の間は欄間彫刻や障壁画で飾られていますが、特に四の間の鷹図は狩野探幽25歳の作品と言われる傑作です。

庭園は黒書院と行幸殿から観賞する

遠侍から大広間を結ぶ廊下は、板を踏むと「キュ、キュ」と軋み、鶯の鳴き声のような音を出す鶯張りになっています。二の丸庭園は、築城当時にすでに造られていたようで、3代将軍家光が後水尾天皇の行幸を迎えるために小堀遠州に命じて新たに築造させたものです。遠州は作庭とともに池の南畔に臨んで行幸殿を建て、池の西側には女房衆の休処(やすみどころ)、数奇屋を設けました。

そのため、庭園は二の丸御殿大広間と黒書院から眺められる正面と、池南面の行幸殿からの観賞にたえられるように作庭されています。この庭は遠州の作庭の中でも仙洞御所と並び、傑作中のひとつに数えられています。武家の庭園らしく池中に三島を築き、神仙島を表現して、永劫の繁栄を祈っています。

黒書院の大建築や二の丸御殿の華麗な桃山文化の装飾に対抗できるように、庭石も大石を用いていて、多彩な色調の数種の異なった自然石が選ばれています。四国の青石や、地元洛西の赤みがかった山石等を多量に用い、雄渾な様式で石組みしてあります。池の北西隅に滝口が組まれており、多くの立石を用いて力強い印象を与えています。

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