詩仙堂

徳川家を追放された丈山が儒教や中国書道を学ぶために建てた詩仙堂

京都・東山を南北に貫く白河通のバス停に、一乗寺下り松町があります。ここは、江戸時代の剣豪宮本武蔵が吉岡一門と決闘した場所として伝えられていますが、本当にここで戦われたかについては明らかではありません。

この下り松から東に上っていくと、竹藪の中に「小有堂」と書かれた門に突き当たります。さらに参道を進んでいくと、物見櫓のような小楼・嘯月楼(しょうげつろう)をくぐって、凹凸窪(おうとつか)門を抜けて建物に入ります。詩仙の間があり、四方の壁に狩野探幽が描いた中国の詩家36人の肖像画「中国36歌仙像」が掲げられています。寺名もこの絵から付けられました。

鹿脅しの考案者だとされる丈山の風雅を伝える

正式名称は「詩仙堂丈山寺」といいますが、一般に詩仙堂の名で親しまれています。寛永18(1641)年、江戸初期の文人、石川丈山が造った草庵である。丈山は元々は徳川の旗本でしたが、大坂夏の陣で抜け駆けを行い、軍旗違反で徳川家を追放されました。その後、入洛して藤原惺窩(せいか)に師事し、儒者林羅山などと交わり、師の推挙で紀州藩に仕官しましたが、また京都に舞い戻ったのです。

その時にこの堂を造りました。生涯妻帯しなかった丈山は寛永12(1672)年に90歳で死ぬまで、ここで暮らしたとされています。丈山は作庭の名手でもあり、左京区にある蓮華寺、下京区の渉成園などの庭が、彼の作と言われています。

唐様庭園には白砂にツツジと山茶花が配されています。庭には僧都(そうず=鹿脅し)があり、京都の庭園には珍しいものではありませんが、実は丈山がこの僧都の考案者だとされています。静かな一乗寺の里に、時折響く「コン」という音色が、丈山の風雅を伝えています。

桂離宮を意識して造られた建築美の曼殊院

詩仙堂から北へ徒歩で20分ほどの所にあるのが曼殊院(まんしゅいん)です。もとは比叡山西塔にあり、東尾坊と呼ばれましたが、住持が菅原氏の出であったため、天暦元(947)年に北野天満宮ができると、その別当職を兼務するために金閣寺の付近に移りました。

明暦2(1656)年に、八条宮智仁(ともひと)親王の晩年の子、良尚(りょうしょう)法親王がこの地に移し造営しました。庫裏から入ると、大玄関にあたる虎の間には、狩野永徳が描いた虎の襖絵があります。大書院は数奇屋造りで、南向きの主座敷が2つあります。東側が十雪の間で、西側が滝の間と呼ばれています。両部屋の間仕切りの欄間は卍くずしとなっています。大書院から庭に出る板戸の引手金具は扇子の形をしていますが、外側の引手は瓢箪の形です。

雄大な自然を表現した仏教的な曼殊院の枯山水

大書院に続く小書院(閑静亭)には富士の間と黄昏の間が隣合わせになっています。黄昏の間の正面左の棚は、10種類の寄木から作られた「曼殊院棚」と呼ばれるものです。また、欄間は真垣と菊を交互に配し、菊も表菊と裏菊を使い分けている。書院前の庭には白砂の大海に鶴島と、亀島が浮かぶ小堀遠州作の枯山水庭園が広がっています。

西京区の桂離宮とならび京都に現存する2つの離宮の1つ

曼殊院から徒歩で20分程の北に位置しているのが修学院離宮(しゅうがくいんりきゅう)です。寛永6(1629)年の紫衣(しえ)事件で譲位させられた後水尾上皇を慰撫するために、徳川幕府が造営した山荘です。下御茶屋(しものおちゃや)、中御茶屋(なかのおちゃや)、上御茶屋(かみのおちゃや)の3つの茶屋で構成され、それぞれが松並木で結ばれています。上御茶屋は、浴竜池(よくりゅうち)を中心に小茶亭を配した大庭園で、特に茶室隣雲亭からの眺望は圧巻です。

池には中島・万松塢(ばんしょうう)・三保島の3つの島が浮かび、中島には楓橋・土橋・千歳橋の3つの橋が架けられています。また、西浜には白砂の苑路と大きな刈り込みが続いています。修学院離宮の参観には、宮内庁への事前の申し込みが必要とされますが、一見の価値があるものです。

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